最後によりそう
昨日、12月8日は小山市で開催された
日曜健康フォーラムにて玉置妙憂さんのお話を聞いて来ました。
<妙憂さんのホームページ>
祖父を看取ってからでしょうか、偶然テレビでこの方のドキュメンタリーのような番組を目にしたことがあります。
ご主人の自然に死んでいく姿が綺麗だったと体感し、僧侶になり、
台北に通い「死に寄り添う」ことを学ばれているそんな内容だった気がします。
この講演会を知るきっかけは、今年の6月に医療法人あいさんでのヨガクラスを引き継いだことで知れました。
いつものようにクラスをしに、あいさんへいく。扉を開くと大きなお月様のポスターが
視界に飛び込んで来ました。
「最期によりそう」
小さな頃から命と向き合ってきた私はすぐに参加を決めたことはとても自然な流れでした。
母と叔母と3人でお話を聞きに伺いました。3つ下の従姉妹もくる予定だったけど生憎都合が悪くなってしまった。それでも、祖父の死に向き合った3人で妙憂さんのお話を聞けたことはとてもよかった。
嫁としての母、娘としての叔母、孫としての私、それぞれの「立場」から祖父を
見て来て、それぞれの想いもある。血気盛んだった頃の祖父は恐かったけど、それは時代や社会、家族の抑圧もあったのだろうと私は思うけど、娘の叔母、嫁の母からすると「恐かった」イメージの方が強いと思う。
それぞれの目線があるけど、最後はやはり「愛されてた」というところに行き着くものだと感じている。
お話を聞きながら、看護師が向いていると言われても、自分もそっちに興味があるのは認めつつも進まなかったのは、介護や看護では救えないものがあると感じていたから。
病院信仰、若返り信仰、血や死をタブー視していく世の中にずっと疑問を持っていた。
ねろたんさんにもらった言葉を借りるなら、「在り方」。それが欠落していると
短い期間ではあるけど介護現場の経験や、日々の人との会話、自分が入院したりと
たくさんの観察を通して痛感した。
だから、私は本質の詰まったヨガ・アーユルヴェーダを選んだし、インストラクターという枠には収まりたくない。そもそものスタートが全て自分の「学び」の延長にあって、「インストラクターになりたい」からの始まりではない。
これまでの大切にして来た自分のエッセンは正しかったと、さらに2020が楽しみになった時間でした。