自分と繋がり いのち本来の喜びを生きる Rieのブログ

インドに飛び込み体感し得たものは、本当の自分を生きる知恵。

名前には使命が宿っている①

きっと誰しも一度は考えたことがあると思うこのテーマ。

 

私が自分の名前について考え始めたのは、小1くらいの授業がきっかけだったと思う。

 

「自分の生い立ち」「名前について」

両親に話を聞き、それを学校で発表するとかそんな感じの内容。

 

母に名前の由来を尋ねると

「理性に恵まれたいい子に育ちますようにと願いを込めた」と返ってきた。

 

もちろん、小1で「理性」は理解できなくて、

「理性ってなんだろう?」という自分の中での問いはこの頃から続きました。

 

理性の意味はわかっていないけど

お父さんとお母さんは「いい子に育って欲しいんだ」は

わかった。

 

いつの間にかこの「いい子」が私を苦しめていくことも知らずに、

「いい子にならなきゃ」とインプットしてしまった。

 

その後、小2の夏休み前に風邪をこじらせ、肺炎に。

その菌が脳へ飛んで意識不明の重体。

 

数日眠り続け、生死の境を体感しました(記憶途切れてますが)

意識を取り戻すと、嘘みたいに回復が早く、脳波も異常なし、

後遺症もなく異例の速さで退院。

 

記憶のない私にはどれもこれも現実味がなく、

目の前に起きていることは他人事のよう。

 (日々の採血、点滴の痛さは実感していたけどね)

 

短い期間の中、小児科病棟の大部屋にいる子たちと会う機会が幾度かあった。

廊下に出てキャッチボールしたり、鬼ごっこしたり、

怪我や病を抱えていても、生き生きと過ごす子たちの眩しさに、

なんだかうまく馴染めない私がいた。

 

なぜなら、現実味がなかったのもあるけど、

別の理由で助かった命をあまり喜べていなかったから。

 

 家族や親戚、近所の方達が「良かった良かった」と泣いて

喜んでくれるので「まぁ、良かったのかな」とは思っていたけど。

「生きてて良かったーーー!」って心地ではなかったのは確か。

 

この体験をきっかけに

「私の命ってなんだろな」

「生きるってなんなんだ」

と、助かった意味生かされた意味などをたくさん考える子どもとなりました。

 (7歳は早いよね。もっと無邪気で良かったのに。

これも持って生まれた性質だったのだろうけど)

 

人生の中で時には苦しくて、しんどくて、

「こんな事ならあの時死んじゃえばよかったのに」

そう思うことも正直あった。

 

あったのだけど、どれだけ深く暗いところに落ちていっても、

最後は「いやいや、生きたくても生きられない子たちもいるよ」

と思い出し、「がんばろー」っと立ち上がる。

 

そしてまた

「この命に託されたものってなんなのだろ」と考え、

名前の「理」を辞書で引いては

 

「真のことわりってなんだ?」

 

っと首をかしげ、その時々で気になる物事をのぞいて、体験して

考え、また気になるものが出たら向かってみると繰り返してました。

 

 

長い間、「社会的にいい子」に生きるより、社会的に悪くても

感情むきだしで「自分を生きたい」の葛藤があって苦しい時間が長かった。
(要領悪くて勝手にもがいてたけど)

 

私がずっと学びたかったもの、子どもの頃から答え合わせしたかったのは、

どんな時代でも変わることのない心の在り方。

 

自分の知らない時代を生きてきた人の話、

昔から変わらないもの、古いものに惹かれたし、

戦時中の話を聞くのも好きでした。

きっとその中に「人のこころ」を感じていたのかもしれない。

 

名前の「理」に込められた意味を手繰り寄せながら生きてきて、

 

「本質を知りたい」

 

その一心がカヌールという温かい町に私を導き、

シュリカリのヨガにも縁をくれた。

 

そして、今回変更したサイト名「Diya Snaga」、

これもまた名前に由来したのです。

 

 パート②に続く。